東海汽船 椿丸 復刻2007 01 10
東海汽船 椿丸 復刻2007 01 10
椿丸
東海汽船椿丸 その1
DATE: 01/10/2007 02:12:52
船名 : 椿丸 1,040 G/T
運航船社 : 東海汽船㈱
航路 : 大島~利島~新島~式根島~神津島~下田
乗船時期 : 1975年(昭和50年)1月
「椿丸」、終戦直後に建造された所謂「小型客船28隻組」の1隻。
本船は東海汽船の新造船ではなく、「藤丸」同様購入船でした。
1948年(昭和23年)6月、中川海運㈱(本社東京)が三菱長崎造船所で建造した「第一照国丸」で、後の照国海運㈱から1959年(昭和34年)に購入して、「椿丸」と改名されました。
以後1977年(昭和52年)に除籍される迄、本分の伊豆七島航路にとどまらず、返還後定期航路が開設される以前の、小笠原航路にまで進出したことは有名なお話です。
現在でも父島のホテルには当時の宿泊客が残した宿泊ノートが残されていて、「椿丸」の長い航海の思い出が書き込まれているのを、見ることができます。
小笠原諸島が返還され、小笠原海運㈱が設立されて東京~父島間の定期航路が開設されるまでには、少なからず時間を要しました。
それまでの間東京都が小笠原村との連絡船として、東海汽船の客船をチャーターして運航していた、という経緯からでした。
元 中川海運㈱→照国海運㈱ 「第一照国丸」
昭和34年東海汽船移籍 「椿丸」改名
東海汽船椿丸 その2
DATE: 01/11/2007 05:39:59
小笠原諸島へのチャーター運航に駆りだされた船は、他にも「淡路丸(藤丸)」「黒潮丸」あじさい丸」等が。
その「椿丸」に乗船する為には、先ず始発港である伊豆大島まで行くことが必要です。
東海汽船の各島航路は千変万化、その時代時代ごとに航路が変更されるのは、殊更珍しくはありません。
とにかく大島乗換えが必要で、東京港竹芝桟橋で下田迄の乗船券を購入しようとしたところ、大島で買ってくれとのこと。
東京竹芝22:00発、大島到着が05:00、これは永きに渡って変わることがありません。
到着が05:00から06:00の時間帯で、変更されることはありますが。
下田行きが1時間待ち合わせの06:00発、丁度良いのは連絡させている訳ですから、当然のこと。
大島06:00~利島~新島~式根島~神津島~下田14:20
丸1日かけて4つの島へ寄港しながら下田港へ、当日は下田迄の運航で、翌日下田から大島まで、1日片道の運航なので「片航路」と呼ばれています。
東海汽船椿丸 その3
DATE: 01/12/2007 05:54:56
外観上の特徴は高いマストと、この傾斜角に合わせてファンネルも傾斜させてあること。この傾斜角を評価する方もいますね。
後に設置された船首部のデリックポストが直立なのが、違和感を感じます。
ファンネルマーク以外のファンネル部分は黄色く塗装されていますが、東海汽船のファンネルは黄色なのです。
しかしこのファンネル塗色も「あじさい丸」以降は、後部マストとファンネルが一体化した「マックファンネル」となり、以後「さくら丸」「はまゆう丸」(初代)「かとれあ丸」(初代)と続くこれらの船では、ファンネルマークそのものも消え失せてしまいました。
映画「伊豆の踊り子」は幾作も作られましたが、下田港から大島へ向うシーンでは、この古い「椿丸」「藤丸」等が登場して、黄色いファンネルが見られました。
大島元町港でも下田迄の切符はなく船内で乗り越して下さいとのことで、神津島迄の乗船券(硬券)を買って乗船します。
1等船室番号は手書き、当時は当たり前ですが。
案内所で乗り越し切符を発行して貰うと、船室まで案内してくれました。
上甲板の上の階、遊歩甲板レベルにある窓が2つ3つと並んで見えるのが、1等室です。
案内されたのは定員4名の真紅のカーペットが敷かれた和室で、ドアではなく木製の引き戸になっています。
船室内には壁に定員分のハンガーが掛かっているのと、後はゴミ箱があるだけで他に何もないシンプルなものです。
通路は薄暗く、各室の引戸扉はすべて木製で、時代の違いを強烈に感じ取る事が出来るというか、貴重な経験であることに些かの感銘を受けた、といっては言い過ぎかな。
終戦直後ではこの程度が標準であったのでしょうね、「淡路丸(藤丸)」も瓜二つそっくりでした。
東海汽船椿丸 その4
DATE: 01/13/2007 04:53:37
大島接岸港は元町、冬場に元町ということからして、曇りながらも
風波ともに穏やかでした。
大島出港から1時間、最初の利島は艀取りの為、放送で欠航が告げ
られました。
ここで下船する予定のお客さんは、次の新島で下船して1泊、翌日の便で帰らざるを得ないという、何ともお気の毒なことで。
利島下船予定は女性1名でしたが、新島で利島までの切符を見せて下船して行かれました。
寄港地の条件付などは無かったのですが、艀には厳しいかなといった感じでした。
新島からの寄港地ではデリックを使った荷役が始まりました。
最上階の遊歩デッキで見物するお客がチラホラ、延々と大きな音をたてての荷役が続き、停泊時間も結構長いことでした。
こうして次の式根島、神津島と各島々をのんびりと、神津島は裏手東側の多幸湾ではなく、表の前浜神津島港に接岸出来てやれやれ、多幸湾は未だ艀取りでした。
船内に食堂なし、売店では真空包装の弁当が売られておりました。
2~3日は賞味出来そうな感じですが、この弁当が嫌いなので食料は持ち込み、弁当はパス、冬場なのでどうにでもなります。
スタビがないので横揺れを楽しみながら、神津島から下田までの2時間30分の航海を存分に。
関東から西に向う船の銀座通りを横切りながら。
下田海保前の岸壁は今と変わらず、伊豆急下田駅までの東海自動車の連絡バスもありましたし、有難かったです。
徒歩20分なので、十分歩ける距離ですが。
思い起こせば、最初ここに下船したのは「あけぼの丸」。
「椿丸」は昭和52年、赤穂(久三商店)で解体されました。
名船「橘丸」の後、4年後のことでした。
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