オーシャンフェリー かしおぺあ/あるばとろす 復刻2006 12 31
オーシャンフェリー かしおぺあ/あるばとろす 復刻2006 12 31
千葉~徳島 かしおぺあ
オーシャンフェリー かしおぺあ/あるばとろす その1
DATE: 12/31/2006 05:21:15
神崎製紙㈱、豊益海漕㈱により設立されたオーシャンフェリー株式会社。
長距離フェリーの揺籃期、誰しもが当然それまでの旅客船事業者が旗振り役になるのではと思いきや、大手旅客船事業者は逆に拒絶反応を起こしたもので、これは予想外であった。
このことが後々これら事業者にとってどう影響したかは、ご存知の通り。
このオーシャンフェリー㈱は製紙業界から神崎製紙㈱の参入で、有名な名門カーフェリー㈱は京都の西田練炭工業㈱の出資で設立された。
異業種からの参入が長距離フェリー業界を席巻したことは、紛れもない事実であった。
1972年7月(昭和47年) 千葉~徳島間に 「かしおぺあ」、同年10月 「あるばとろす」 の2隻の同型船で、旅客フェリー航路が開設された。
千葉港の接岸場所は出洲埠頭、徳島港は津田埠頭、距離660キロ。
「かしおぺあ」 (7,454屯) 波止浜造船
「あるばとろす」 (7,480屯) 波止浜造船
外観上の特徴は最上階に突き出た展望室と、イタリア客船 「ミケランジェロ」 「ラファエロ」 姉妹を模したケージファンネル(鼓状)だ。
上部車両甲板に長距離フェリーでは珍しいサイドポートが、1箇所(後2箇所に改造)設置されていた。
オーシャンフェリー かしおぺあ/あるばとろす その2
DATE: 01/01/2007 10:16:39
運航船社 : オーシャンフェリー㈱
航路 : 千葉~徳島
就航船 : かしおぺあ あるばとろす
就航 : 昭和47年7月
国鉄千葉駅前のそごうデパート前から、京成バスの路線バスをチャーターした無料連絡バスで凡そ10分、出洲埠頭の突端にあるオーシャンフェリーターミナルに着く。
埋め立て前には海岸線を走っていた国道から1.2キロ程、埋立地の先端部にあり、前には川崎製鉄の工場が迫っている、工業港の一角にあった。
平屋造りの建屋に手続き窓口と待合室、、船尾から車両を積み込む可動橋、上部車両甲板のサイドポートに乗り入れる可動橋、パッセンジャーデッキと呼称していた旅客甲板へ直結する人道橋タラップ等の設備が整っていた。
夕刻出港時には当時物珍しかった、長距離フェリーを見物する人々が多数いて、その数は乗船客より多かったこともあった。
この航路は後々東京に寄港するようになり、
【下り】 東京→千葉→徳島
【上り】 徳島→東京
で運航されるようになるのだが、ここで東京→千葉間の区間乗船を楽しめるようになるとは、この頃には努々思ってもみなかった。
ちなみに東京~千葉間は1時間30分、2等のみ取扱いの300円、東京駅八重洲南口近く→東京港フェリーターミナル間連絡バスが、200円していたが。
オーシャンフェリー かしおぺあ/あるばとろす その3
DATE: 01/02/2007 04:09:25
◆船室構成
【特等特別室】 2名*2室 (特別室使用料/1室毎)
【特等】 (和)2名*3室
(洋)2名*5室
【1等】 (和)4名*10室 2名*20室
(洋)4名*20室
【特2等】(和)14名*5室 13名*8室 5名*3室
【2等】 パッセンジャーデッキ 201名
ドライバーデッキ 144名
ドライバー室76名 計790名
特2等室はカーペツト敷きの和室で、区画型2等室と
何ら変わりなし。
◆船内配置
展望室/喫茶バー (展望甲板)
レストラン(カフェテリア) (遊歩甲板)
特等室 1等室 特2等室 2等室 (パッセンジャー甲板)
エントランスホール 案内所 ( 同 )
2等室 ドライバー室 (ドライバー甲板)
ダンスホール 大浴場
展望室は喫茶やバーとして営業出来る設備を有しており、夜間はバーとして営業されていた。
首都圏発で見る限りバー営業する船は初期の長距離フェリーには多く、東京~苫小牧、東京~釧路、東京~伊勢松阪、川崎~神戸(セントラルフェリー)、など枚挙に暇なしといったところであった。
オーシャンフェリー かしおぺあ/あるばとろす その4
DATE: 01/03/2007 02:47:53
中ノ瀬航路、浦賀水道航路を12節以下で航行中、船内放送では観音崎灯台、戦没船員の碑、防衛大学校など随時案内があったのも、初期の特徴だった。
地元の東海汽船以外にここを通る経験が出来なかったことから、物珍しかったことでもあり、他の船社でも実施していた。
レストランのカフェテリア方式も、北海道航路の2社がテーブルサービスであったことから、新鮮に感じられたものだった。
窓外の夜景を見やりながらの食事やお酒で、満足した方が多かったと思っている。
外海に出ても、左手の大島、右手の熱海伊東辺りの夜景から、伊豆半島先端部の神子元島灯台、石廊崎灯台をかわすまでは、何らかの灯りが遠望できて、場所当てに興じることも暫し楽しいものだった。
大浴場も展望ではなくインサイドが殆どで、本船も大浴場とダンスホールが下層デッキに設備されていた。
ダンスホールは現在でも少数派、どういった発想からダンスホールを造ったものか定かではないのだが、その後にもここをダンスの場として利用している場面には、出会ったことがなかった。
夜が明けて紀伊半島先端に近づき、那智勝浦近くの山の上にホテル群が見えて来る。
紀伊勝浦駅近くから送迎用の連絡船で、ホテル玄関に向うこのホテル群に宿泊して、朝目の前の海を潮岬に向うフェリーを見ることが出来るが、今は逆に船上からこうして宿泊した有名ホテルを見つけるのが常でした。
潮岬をかわすと3/4を過ぎて徳島港までは残り僅か。
徳島からは取り敢えず徳島~神戸(青木)の 「徳島阪神フェリー」 で神戸フェリーセンターへ、ここからか又は大阪南港から他のフェリーに乗り換えます。
オーシャンフェリー かしおぺあ/あるばとろす その5
DATE: 01/04/2007 00:49:03
航路が開設されたことで千葉と徳島の結びつきも増えて、千葉市内のデパートでは徳島県の物産展が頻繁に催行されたり、旅行社では往復オーシャンフェリー利用による四国ツアーが募集されるようになったりもした。
このことは団体客の乗船に直結してゆくことになった。
但し東京から那智勝浦行きの団体客の比ではなかったが。
開放型の2等室が後方で、パッセンジャー甲板とドライバー甲板と2層に分かれているのだが、閑散期は下のドライバー甲板の2等室は照明が消されていた。
この階段が途中踊り場で折り返しなしの、1本階段であったことを思い出した。
レストランに上がる階段もまた然り、当時は何とも感じなかったものだが、今どきのフェリーは優しくなりましたね。
やがて東京寄港が開始されると、それまで日中は常に出洲埠頭に停泊していた 「かしおぺあ」 「あるばとろす」 も、千葉港での停泊が僅か1時間になり、東京主体に変化してゆくことになった。
が、東京~千葉間の区間乗船というこれに勝るものなしといった、おたのしみがプレゼントされることになり有難かった。
最初の区間乗船で、恐る恐る 「千葉まで行けますか?」、「はい、おひとりですか」、何のことはないではないか。
それからというもの、狂ったように乗りまくった。
東京→千葉の国鉄運賃が200円の時代に、東京駅→フェリー埠頭 連絡バス200円
オーシャンフェリー 東京→千葉 2等300円
出洲埠頭→千葉駅 連絡バス無料
都合500円かかるのだが、何の何の。
就航から3年6ケ月後の1976年(昭和51年)2月1日、東九フェリー㈱との合併を契機に千葉港は抜港となり、短かったものの大きな区切りと幕引きを迎えたこととなった。
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