特集2 Tフェリー 「K」 での船内負傷事故を語る 復刻2007 09 21
特集2 Tフェリー 「K」 での船内負傷事故を語る 復刻2007 09 21
Tフェリー「K」での船内負傷事故を語る その1
DATE: 09/21/2007 02:00:00
【管理人から】
荒天航行中の太平洋フェリー「K」で、重大な負傷事故に遭遇したカッチンさんからの投稿を特集します。
船は危険な側面を持っていることの例示と、事あった場合の補償の実態について語られることを期待します。
第1回のポイントは、通常であれば操舵室から、挨拶のアナウンスをしているこの会社にあって、当日は船長からのアナウンスが何も無かったことです。
船長のアナウンスとは、こうした機会にこそ行なわれるべきものではありませんか。
通常の挨拶が不要とは言いませんが、それはこうした荒天時に適切なキャプテンアナウンスが出来た上で、のことでないといけません。
***** 以下 カッチンさんからの投稿 ***** *****
私は船の中で全治半年の重傷を負った。
私は船が好きである。
その船という乗り物で怪我をしようとは、今まで一度すら思ったこと、想像すらしたこともなかった。
それは私の人生経験の短く、かつ甘い考えであることの証明である。
事故当日、私は北海道は○○の宿でテレビの天気予報を観ていた。
「この低気圧は、この後、猛烈に発達し、北日本では荒れた天気になるでしょう」
ブラウン管に映る予想天気図を観る。まるで台風のごとく渦を巻いた低気圧が北海道に向かっているではないか。
私と家内は、今夜、○○○19時発の○○経由○○○行きフェリーに乗るべく予約をしていた。フェリー会社へ電話をする。
「定刻に出港予定ですが、○○港で欠航になるか○○○港着が2~3時間遅れる見込みです」。
あぁ、運航するのか。良かった。
17::30、船に乗船。
まだ岸壁に係留されているというのに、船は小刻みに揺れている。これは大変なことになりそうだ。
過去の経験から、私は家内に酔い止め薬を飲むように命じた。
19時、船は電話の案内とおり、夜の帳が下りた苫小牧港を定刻に出港した。
一般客は気がつかなかっただろうが、この会社の船に30度より多く乗ったことのある私はある重大なことが気になっている。
それは、船長の時化に対する警告・注意を促す放送がなかったこと。
この会社の船長はこのような場合、今までは「揺れて危険である。
階段、ドアの開閉には十分注意されたい」と放送をしていたのだが、今回はなかった。
案内所の女性係員はそのことを放送はするにはした。
ただ
し、レストランの営業時間や、お客の呼び出し放送などに混ぜてそのような重要なことを放送しても誰も聞いてなんかいない。
そこは男性の声で、「私は船長の○○です」とやれば、船長からとは何事かと皆の注意を惹くものである。
地図を見ていただくとお分かりになると思うが、○○○は港を出るといきなり太平洋である。
出港してわずか15分後、早くも190メートルの船体は波の思うがままに太平洋上の木の葉と化してしまった。
レストランではウエイトレスたちがテーブルの上の調味料の瓶を片付けて回りだした。
これは大変なことになる!
私たちは食事も早々にレストランを出、部屋へと帰ることにした。
そのレストランから部屋に帰ることすら難儀した。
船の揺るがままに私と家内の身体は左右、そして前後へと、まるで知らぬ者が見たら、単なる「泥酔者」。
私たちの部屋はレストランの下の階にある。階段の手すりに両手で必至にしがみ付き、家内は「恐い!」を連呼し私の腕にしがみ付いている始末。
やっとの思いで部屋へ帰った。
その瞬間である。家内はトイレへと駆け込んだ。薬の効果もなく、おう吐したのだ。
家内がいつも飲んでいる薬なのに、今回は効き目がなかった。
家内は寝台へと横になった。もう、口も利けないほど参っていた。
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特集2 Tフェリー「K」での船内負傷事故を語る その2
DATE: 09/22/2007 05:02:53
【管理人から】
負傷のシーンが記述されています。
マニュアル通りの放送しか出来ないこの会社の、負の部分も露呈されています。
***** 以下 カッチンさんからの投稿 ***** *****
レストランを早々に引き上げたので少しく飲み足りない私は、売店へ缶チューハイを買いに部屋を出る。
相変わらず手すりにつかまらないと、とてもでないが危なくて歩けない。
苫小牧を出てから1時間も経たないのに売店に客はおらず、若者数人がイスに座り弁当を食べているだけであった。
さて、家内は相変わらずの状態で寝ている。ひとり淋しく第二の宴を始めた。
バシャ~ン・バシャ~ン!
窓に波が叩きつけられる音がしている。暗い外を写真屋が記念撮影する時のように、私はカーテンで顔の辺りを被い、ジッと外を見た。
暗闇に眼が慣れてくると海が見えてきだした。
それはそれは、とても恐ろしい光景でした。
大きな黒い影がこちらに向かってやって来ては、船体に当って砕けて、ドーーンと音が響くのです。
その大きな音がしたと同時に船はガクンと揺れる。
時たま大きな波が私に目がけて、バシャ~ンと窓ガラスに当り、雫が下へ下へと降りて行くのです。そ
の雫がまだ下へ降りてしまわないうちに次の波が襲いかかります。
ところで、私は尿意をもようしました。レストランで飲んだ酒を排出せねばなりません。
部屋のトイレへと入りましたが、とてもではないが立ったままで
小便なんぞできるわけがありません。手が3本ないと無理です。
私は女性のように便器に座り、小便をしました。
用が済み、トイレから外へ出ようとした、その瞬間です。
ドッガーーーン!!
まるで大きな岩盤にでも激突したかのような激しい音がしたのです。
私の身体はフワッと宙に浮いたかのように軽くなりました。
その後です。
バターーン!、私の身体は床に叩きつけられてしまいました。
一体、今のは何だったのか分からない。けど、唯一、言えることは私の左足が痛いこと。
立とうとしました。
「痛い!!」 立てない。激痛。
私は這って元の位置に戻りましたら、テーブルの上の缶チュー
ハイは床のじゅうたんの上で波に任せてコロコロと。灰皿はテー
ブルから1メートルも離れた所に転がっていました。
私は左足首をなでつつ、「単なるネンザだろう。明日には治るだろう」と思い、寝ることにしました。
家内も死んだかのように寝台で寝ています。
それにしても船長は何をやっているのだろう?夜中ならいざ知らず、まだ9時である。
この揺れはいつまで続くのか、どの程度で収まるのか?
船長がそれを知らないはずがない。なぜ、その情報を我々に提供してくれないのか?
「大浴場は閉鎖しております。また、本日は海上模様が悪く、船体の動揺が予想されます」
案内所の女性の放送が流れる。何を言っておるのかと思う。
「動揺が予想されます」どころか、すでに2時間前から大時化で
はないか。
この会社の案内所には放送用の原稿が用意されている。そのように読むように指示されているのだろう。
その夜、私は足の激痛で眠ることができなかった。
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特集2 Tフェリー「K」での船内負傷事故を語る その3
DATE: 09/23/2007 04:01:05
【管理人から】
なになに、この 「Y」船長なる人物、夜のショーに自分の母親をステージに上げて紹介していた ?。
○○○フェリー会社に問いたい、このような公私混同が社内規程で許されているのですか ?。
いささか不愉快なこととして、受け止める乗客も少なくない筈。
***** 以下 カッチンさんからの投稿 ***** *****
眠れない・・・。
どうしても眠れない・・・。
足が疼く。
ズキズキなどという常套句では言い表わせないほどの痛み。
ズッキン・ズッキン。いや、ゴン・ゴンと骨に響くような痛み。
朝になり、家内が起きてきた。じゅうたんの上で寝ている私に家内は言った。
「なんで、そんなとこで寝とるんよ?」
「昨日、そこでこけて足が痛くて寝台にも上がれんのんじゃ!」
「どっちの足?見せてん」
と家内はズボンを捲し上げると絶句した。私自身が言うのも変だが、盛大にたまげた!
「どしたん、これ?すごい、腫れとるが!!」
私の左足の指先からヒザの手前まで、それは表現のしようのないほど紫色に変色し、やせている私の足はパンパンになっている。
家内はまだ揺れの収まらぬ船内を歩き、案内所へと行った。
そこで事情を話し、シップとそれを張るテープをもらって来た。
それを私の足に這ってくれると、「あぁ、まだダメ」と寝込んでしまった。
私は家内に問うた。
「このテープはもらってええんか?」
「いや、案内所がすぐに返してくれと言うとった。けど、お宅、こんな状況ですぐに返しに行ける思っとるんか!と言ってやった」
朝食の案内放送が流れた。
しかし、この足では階段を上がってレストランへは行けない。
足は痛くとも腹は減る。家内はメシどころではなく、寝台でウンウンうなっている。
私の足はシップ程度では効果もなく、相変わらず紫色をしている。
まるでサツマイモみたいだ。
12時ころだったろうか、定刻より2時間半ほど遅れて○○港に着いた。
「○○港では荷役作業が終わり次第、出港します」と曖昧な放送が一言あっただけ。
ここで地元のS君と会う約束をしている。
確か船の出入り口付近に車椅子があったはずだ。私は家内に取りに行くよう命じた。
女性乗員と家内が車椅子を持って部屋へやって来た。
「お客様、途中に階段がございますので、お降りになるのはご無理では・・・?」
「いや、ターミナルまで行くだけですから」
「いや、しかし・・・」
「降りるのがダメなら、そこの出口の手前まで友達に来てもらってもいいですか?」
「それはできません」
彼女は男性乗員の元に駆け寄って行った。
その男性は「良いとも悪い」とも返事もしなかった。
女性乗員たちは、皆、私の足を見て一様に驚いた。
ターミナルではS君が待ってくれていた。
が、私の変わり果てた姿に口をポカ~ンと開けて驚いたいるようであった。
彼とは30分ばかり話をしただろうか。
私はどうせレストランには行けないので、自動販売機でカップ麺を買った。
お湯は部屋で沸かせる。
15時、「本船はこれより出港いたします。明日の○○○港入港時間は、明日の朝、改めてお知らせいたします」、と案内所から放送が流れた。
何をぬかしてやがる、と思った。
時化も収まったのに、このY船長は○○○までの運航予定も予想できないないド素人なの
か?
私たち夫婦は、このY船長は前からキライだった。
自分の母親が乗船した時に、夜のショーにのこのこ舞台に出てきて母親を紹介していたことがあった。
それは余興として理解できるが、今回のような気象状況下で「私は船長です」と放送してこそ乗客と乗員の命を預かる海の男である。
船は簡単なアナウンスが流れただけで、何事もなかったかのように仙台港を出港した。
そして、夕食。行けるはずもない。家内もまだ食欲がないと言う。
食べる物もない。家内が売店でビールと酒のツマミを買って来た。
今夜はそれでガマンするしかない。
足は変わらずである。
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特集2 Tフェリー「K」での船内負傷事故を語る その4
DATE: 09/24/2007 04:21:52
【管理人から】
船は危険度の高い乗り物である、という基本認識を持つことが、事故予防の最善策であるといえるでしょう。
昨今は路線バスでさえ下車の際には、「完全に停車してから席を立つように」 徹底されています。
筆者の言う 「 たかが船 されど船 」 、聞き古した言葉ですが写真の手術跡を見せられると、説得力があります。
それにしても、誰の目にも骨折している事が明らかな乗客を、タクシーのりばまで送って、「ハイサヨナラ」 は、血の通った人間のすることでは決してないですね。
下船地営業所 : 救急車手配で病院搬送
本社 : 病院へ1名派遣の上、状況の把握と今後の対応、自宅への帰宅手段の相談と、これくらいは考えても良いのでは。
JR○○○駅の○○駅手配、頼まれなくても先を見越したサービスの率先を、フェリー会社も見習って欲しいものです。
運輸機関は、運送業ではなくサービス業であることの、認識の差が露呈されたということです。
写真のバックに写っている 「ASUKA CLUB」 とは、全長240メートルの巨船 「飛鳥Ⅱ」 のこと。
しかして、筆者は 「飛鳥Ⅱ」 のご常連でもあらせられます。
***** 以下 カッチンさんからの投稿 ***** *****
トイレに行くにも這って前進せねばならぬ。
そんな夜を過ごし、また朝が来た。
足はますます腫れている。しかし、盛大に空腹である。
家内は調子が戻ったようでレストランに朝食に行った。パンを2個ほど持って帰って来るとのこと。
楽しみに待っていたのだが、家内はすまなそうな顔をして部屋へ帰ってきた。
聞けば、お客は他にわずか1名いるだけで、乗員みんなが見ている中でそれはできなかったそうだ。
しかも、ご飯をもらったら、大きな茶碗に山盛りして差出してくれたそう。
「よく私の身体を見て下さい!こんな大盛りが食べられるとでも思っているのですか!もったいない」、小柄な家内は言ったそうな。
はぁ~、5枚あった食券のうち、使ったのは最初の1枚だけか。
それこそ、もったいない・・・。
○○○港に着いた。男性乗員が部屋まで車椅子を持ってきてくれるそうだ。
彼は私に問うた。「船の中でお怪我なさったのですか?」、そうだと状況を話しても、彼は返事もせずに知らん顔していた。
これは事故隠しされる可能性があるな。
直感した。
○○○で降りた乗客は30名程だったろうか。こんなに少ないのは初めてだ。
関西なまりのあるお調子だけがとりえの事務長に見送られ男性乗員に車椅子を押してもらいタクシー乗り場まで見送ってもらった。
私は彼に礼を述べると同時に、皮肉で「事務長さんによろしくお伝え下さい」と言った。
さぁ、ここからJR○○○駅までが大変である。とにかく壁に寄り添いつつ、何とか○○○駅駅長室にたどり着いた。
事情を話すと車椅子を手配してくれ、○○駅へも手配の連絡をしてくれる。
新幹線の中で久々の食事にありつけた。サンドイッチをもさもさとほお張りつつ、あの怒涛のような荒れ狂った海の上では、いくら190メートルもある船でもあのザマなんだ。
その後、私は240メートルの大型船に乗る機会を得たが、その時も風速22メートル、波は6メートル、大海原に浮かぶ小さな葉っぱにしか思えなかった。
海の恐ろしさを知っているはずのY船長が何も言わず語らずでは、我々は安心してこの会社には乗れないと痛感した。
さて、やっとこさの思いで帰宅した私は、すぐに整形外科へと家内の運転する車で受診に向かった。
私の足を見た看護師らは一様に驚いた。そんな物は見慣れている彼女たちですら驚くとは、余程、ひどい症状なのだろう。
レントゲン写真を見た医師は私と家内に説明した。
「踝の部分が2本折れています。これは手術をしないといけません。そうですね~、早くても3か月はかかりますね」、私は目の前が真っ暗になった・・・。
医師は取りあえず足の固定と、内出血しているからよく消毒するように看護師にテキパキと指示をした。
そして、松葉杖を借りて帰宅した。
初診から4日目、私は手術台の上に乗っていた。背中の脊髄から麻酔を打ち込む下半身麻酔で行うそうだ。
下半身の感覚がなくなった。
「○○さん!ここは何か感じますか?」
「いえ、何ともありません」
キュイーーン!電動ドリルのような音がする。何をしているのだろう?医師たちの会話は聞こえる。
「ここにネジを入れても緩いしな~」
「でも、ここに入れんと骨が固定できんぞ」
その時、陣頭指揮に当っていた院長が私にモニターを見せてくれた。レントゲン写真なので白黒だが、今、正に私の足にネジを入れて締め付けている瞬間だった。
「これは難手術ですよ、○○さん」
4時間近く経過しただろうか。無事に成功したらしい。
私の左足は踝の部分が左右2箇所メスが入れられた。右側(写真)は約6センチ、左側は約8センチもの傷跡が残った。
その中に左にネジ1本と針金、右にネジ2本が入っていると医師から説明を受けた。
たかが船、されど船。
私は麻酔の効いた動かない下半身と共に、深く思った。
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特集2 Tフェリー「K」での船内負傷事故を語る その5
DATE: 09/25/2007 05:38:20
【管理人から】
重大な負傷事故を、事故と認めない 「身勝手体質」 に呆れる。
影で名船 「I」 が泣いている。
例のY船長の公私混同は、おとがめなしかな、こちらも呆れる。
***** 以下 カッチンさんからの投稿 ***** *****
月日は流れた。
3月の下旬からはリハビリ治療が始まった。
痛い!
リハビリの医師は言う。
「○○さん、足を使っていないから痛いんであって、無理してでも動かして下さい」
厳しい言葉が飛んだ。
中には老人が泣きながら言う。
「先生。痛とうて辛抱できんけん、やめさせて下さい」
「ダーメですよ、○○さん!そんなことしとったら、もう死ぬまで一生そのまんまですよ!そうなっても、私は知りませんよ!」
さて、私は自分の所有しているクレジットカードに付帯の「旅行傷害保険」の手続きを始めた。保険会社によれば、旅行中であることを証明するためフェリー会社の事故証明を取り寄せる
ように指示があった。
私はまず、フェリー会社の営業部へ連絡した。
その際、Y船長の不手際と母親をショーに出すなどの公私混同を指摘した。
営業部次長と名乗る人物から、ご意見は海務部へ連絡するとのことであった。
その後、○○○支店長という偉い肩書きの人からの連絡が来た。
「事故証明書はお出しできませんが、現認書ならお出しできます」
そうか、やはり「事故」とは認めたくないのか。
日本一豪華なフェリーを売り物としているこの会社にとって、客の事故などは隠すのか。
その支店長は意外なことを言った。私は耳を疑った。
「○○様におかれましては当社を何度もご利用いただいておりますので(どこで、それを調べたのか分からない)、今回のお怪我につきましては一切の治療費を当社でご負担させていただきます」
そして、請求書や返信封筒、返信用の3000円分の郵便切手が私の手元に届いた。
同時にフェリー会社が契約している損保会社宛の「同意書」も同封されていた。
なんだ、自腹で治療費を出すわけではなくて、損保会社の保険金で支払うのか。
保険会社にしてみれば金をできるだけ出したくないわけで(これは当たり前のことだと私も
理解している)、これはちょっと厄介なことになるぞ。
この支店長はなかなか話が分かる人で、通院に関わる交通費も支払うと言ってくれた。
私は○○銘菓の「○○だんご」を送った。本来ならば先方が見舞いと称して「きしめん」のひとつでも送ってくるべきことだが、これは私の策であった。
1000円程度の団子を送り、相手に恩を売る、そうすれば普通の人間なら情がある。
が、残念ながら、フェリー会社での人事異動があり、支店長は6月、グループ会社へと去ってしまった。
後任には○○○支店次長が私の担当となった。
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特集2 Tフェリー「K」での船内負傷事故を語る その6
DATE: 09/26/2007 05:08:16
【管理人から】
見舞いに来ないのに、「お見舞いに行く」 などとウソをつくものではない。
いい加減にせい。
原稿は明日の第7回で最終です。
写真は、知る人しか知らない画像掲示板から、いわば追放を受けた、本稿の核心部分となる証拠です。
このネジ2本が足に埋め込まれています。
楽しい船旅から一転、奈落の底に突き落とされたことの、証しでもあります。
***** 以下 カッチンさんからの投稿 ***** *****
私は後任の次長宛に直筆の便りを送った。
内容は今後もよろしくお願いします程度のたわいもない内容であった。
病院の領収書がたまってきたので次長宛にその便りと一緒に配達記録郵便にて送付した。そして、請求書の金額が私の銀行口座に入金されてきた。私は不審を感じた。
この次長は前任の支店長と異なり、領収書を受け取りました、何日にはご送金します、などなど何にも連絡がなく、いわば事務的に処理しているなと感じを抱いてしまった。
次長が担当し始めてから1か月ほど経過した頃だったと記憶している。
「何の連絡もなく、あまりにも事務的にコトを進めますれば、示談で済むものもそうはいかなくなりますよ」、と連絡した。
すぐに次長から電話が鳴った。詫びの電話だった。その際に、お見舞いに行くとも発言した。ありがたい話だと思う。さすがは太平洋フェリーだけのことはあると感心した。
話は足の怪我に戻る。
5月上旬、病院でのレントゲン撮影の結果、3本あるネジのうちの1本が緩んでいるのが写っている。医師は、「もう、これは必要ないので取りましょう」。
は~、また足を切るのかと落胆したが、手術は40分程度でわりと簡単に終了した。
そのネジは写真のものである。
3月、リハビリ室の窓から見えていた枯れた木は緑を増して、春がやってきたことが窺える。
リハビリ室にもエアコンが入り、窓の外は夏の空に変わっていた。変わらぬのは我が足である。
リハビリに効果があるのか?そんな疑問もわいてくるのも仕方ない。ただ、唯一、変わった点と申せば、それまで2本だった松葉杖が1本でも歩けるようになったことだろうか。
広島では原爆反対の運動が毎年のお祭り行事かのごとくマスコミが騒ぎたて、盆がやって来、天皇陛下が戦地に散った御霊にお言葉を述べられる。
毎年毎年、同じことを繰り返しているにもかかわらず、世の中は変わらない。
私の足も変わらないままに秋が来た。
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特集2 Tフェリー「K」での船内負傷事故を語る その7
DATE: 09/27/2007 03:15:36
【管理人から】
本稿が最終回となりますが、原稿の前半部分は、怪我とは無関係な疾病について記述されていますので、この部分は留保してあります。
カッチンさん、有難う御座いました。
***** 以下 カッチンさんからの投稿 ***** *****
一方のフェリー会社の次長であるが、9月になってもまだ見舞いに顔を出さない。
「もう負傷から半年以上も経過しているし、今さらの見舞いは固くご辞退する」と伝えた。顔を見ても冷静な会話などできないと判断した結果である。
9月11日、病院(ケガの方)から「後遺障害診断書」なる物が発行された。
「症状固定状態」医師がそう記していた。
私はそれのコピーをフェリー会社へ郵送した。これが大きな取り返しのつかない結果を招いてしまった。
次長からは、このようなメールが届いた。
「9月11日付けで症状固定状態との診断書が発行されたことにより、もうこの日を持ちまして治療費の支払いをさせていただくことはできなくなりました。以降の治療費は後ほどお支払いさせていただく慰謝料にて充当願います。これは社会の仕組みで仕方ないことですが、どうかご事情をお察し下さい」。
冷静に考えれば、それは間違ってはいない。もう、治る見込みのない者に治療費や交通費を支払うバカな保険会社などあろうはずもない。
「社会の仕組み上、仕方ない」、Tフェリーは保険会社ばかりに頼って、己の腹を割る意思はないとみた。
これより、Tフェリーと私は示談と言うことになる。いずれはこの日が来るのは覚悟していたが、突然の宣告に私はさらに落ち込んでしまった。
今の私には幸もなければ不幸もない。いや、どっちにも感ずることすらできないのです。
この7か月、ただ阿鼻叫喚で過ごしてきた日々は一体、何だったのだろう。
ただ、月日は何事もないかのように去ってゆきます。
そう、月日は何事もないかのごとく過ぎ去ってゆきます。
私は示談を目前にして、最後の抵抗をみせてやりました。
「御社は見舞いに行くと言いつつ、私が断ったにせよ一切たりとも顔を見せませんでしたね。私が示談書に署名捺印するかどうかは、御社の誠意次第です」
先方がどの程度の慰謝料と示談金を支払うかは、私などには知る由もありません。
今日も何事もなかったかのように月日は流れてゆきます。
ただ、私は足に大きな傷を残し、杖を手放せない残り半生を過ごさねばならない。
これは紛れもない事実です。
今日も一日が終わろうとしています・・・。
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